吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

救いの手

このブログ始めて1年が経過した。

重たい一年だったなぁ。

 

darksunday.hatenablog.com

 いつしか感情論の整理よりも、薬の効果や体調についての話題が増えて

「悩み」ではなく、本格的に病んでしまったのかもしれない。

なんせ今は希死念慮が然程ない。

ぼーっとしているから。お薬で感情をコントロールしているから。

生きたい、とは全く思わないけれど

死にたい、とも思わない。

それはすなわち、無感情であるというだけなんだ。

 

昨夜からどろっとしていて、今朝も鬱モード。

もう仕事どころじゃなくて帰りたい。

時々始まる動悸が穏やかじゃない。思いっきり泣きたい。寝たい。

でもせめて意識を保つために少しだけ考えてることを書いてみる。

 

私は無宗教だけど、音楽の中に宗教のような教えを見出して

勝手にそれを心の拠り所として救いを求めるようになった。

以前チラっと触れた『死役所』というマンガが今ドラマ化されてるんだけど

 中でも私はそこに出てくる「加護の会」という宗教にとても興味がわいた。

darksunday.hatenablog.com

宗教の外の人間は理解しようとしないから単純に「胡散臭い」と言う。

何も知らない、どんな事情でどんな救いがあって

その前にどんな苦しみがあるかを考えもしない。

 

だけどこの加護の会では「弱いあなたを愛しています」と言って

あるがままの姿を受け入れてくれる場所を作って穏やかに暮らしていた。

赤ん坊は弱さの象徴。

おくるみは、世間であり常識であり、そういったものを纏わせて育む。

私の見ている宗教もとい音楽でも赤ちゃんはよく象徴として扱われていて

母体の中の赤ん坊の身体に迷路の柄が描かれるシーンが印象的。

 

まっさらだった筈なのにどす黒くなる未来。

憎しみに染まり、悲しみに染まり、路頭に迷うことになったのは

どこで間違えた?どこからやり直せば正しい道に行けるのか?

そもそも正しい道など存在するのか。

 

加護の会では会員同士は家族と言う設定で俗世とは縁を切って

封鎖された自給自足の生活を送っている。

でもそこへ本当の血縁者が強引に呼び戻しに来て

「本当の家族がいるのに!」と嘆かれる中

「何が家族だよ、俺はあっちの方がいいんだ。幸せなんだ」と跳ねのける。

 

家庭環境が円満な人は「なんてひどいことを言うんだ」と思うだろう。

私は「選べるものなら自分で家族を選びたかったよね」と共感して泣いた。

実の家族の元でどれだけ迫害を受けてどれだけ強引な寵愛を受けたことか。

 

インチキマジシャンもどきの超能力で支配しようとしたり

高額なお布施を要求する宗教は確かに胡散臭いけれど

救いの手を与えて貰えるならば私は今の環境全て捨てるのなんて

たいしたことじゃないような気がしちゃうよ。

 

その救いの手は時折血に滲んで苦しそうにしているけれど

共依存を前提にしなきゃ理解なんて出来ないもの。

私は苦しんでる同士を見ると心が安らいで嬉しく思う。