吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

わたしは平穏恐怖症

お題「わたしは○○恐怖症」

 

仕事があまりに暇で退屈なのでお題で執筆。

私は平穏恐怖症。
寛解して元気に暮らしていると、どこか虚しさを感じてしまう。
傷付いたり苦悩したり強いストレスを感じるとふと安心を感じる節がある。
板についた不幸。
それだけ私の人生において苦しい時間は長く、深く染み込んでいるのだと思う。
デフォルトが苦しみにあるから、平穏さを物足りなく思う。
この感覚が分かる人いるでしょうか。

笑顔で平和に暮らす毎日は当然良い。
何にも悩みのない日々、多少のことはすぐに流して気にせず暮らせる安定感。
そこに何も不満はない筈だった。
勿論私はそれを望んでいるし自ら壊すようなことはしたくない。
でも薄々、それが長く続かない一時の儚さであることを察している。

壁にぶつかって理不尽な出来事に心が折れて、ああこの感覚知ってるなって「ただいま」のような気持ちになる。
また戻って来ちゃったよって。
でもなんだかそれが無性に生きている実感を伴うんだ。
生々しい生命力。
心が動いて、感受性が高まって、自分なりの哲学や自問の繰り返しをする。
何の問題もない平和な時にはない「生への向き合い」だ。

寛解と発症を繰り返してると、症状にも耐性が出来てくるのはいいところ。
初めて鬱になった時はダメになった自分を受け入れられなくて、休職に対しても社会から取り残される焦りがあったり、交友関係もうまくいかなくて理解されないストレスを強く感じたけど、知識と経験が増えたことで良くも悪くも諦めの構えが出来てるよね。

先日、困った人たちに振り回される案件があって、中途半端に首を突っ込んでしまったがためにとばっちりを受けたんだけど、知恵袋に投稿して第三者の意見を募ったら私への批判が連なった。
高圧的な態度で罵声を浴び続けて散々な想いをしたことを書いたから、てっきり攻撃的なその人が悪くて私をねぎらうコメントがくると思ってたけど、そっか…悪いのは私なのか。
思えば若い頃から色んなトラブルに遭遇して、理不尽な扱いに尊厳も心も傷つけられ、その度に悩み、時に病んできたけれど、私が悪かったのか。
いい加減目を向けなきゃいけないのかもしれないね。
1度や2度なら不慮の事故だけど、私がこんな性格だから私に原因があるんだろうなって。
病んでいない今はそれを冷静に受け止めて改善を検討する気力があるけれど、病んでたら死にたくなる案件よね。

とは言え、この1週間はしんどかったー。
祝日も有給もなくフル勤務で5連勤の全日程出社は復職後初めてで、ストレスが加わった中よく耐え抜いた。
ここ2日は昼休み終わるのめちゃくちゃ苦痛で会社に戻る足取り重すぎたけど。
虚無の心でほろほろ泣いた時もあったけど。

ダメになってしまうまで見えないカウントダウンをしているみたい。
少しでも長く「普通の人」として社会人を全う出来ますように。