吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

聖なる嘘

ブログ投稿ひさしぶり。

約1ヵ月前に迎えた転機から世界が見違えるように変わって

鬱モードを脱したんだなぁという実感を味わっている。

突然穏やかになった毎日が不思議で、やっと少し慣れてきたところ。

 

何が特効薬となるのかいつ治るのかケースバイケースで

やはり病名を安易につけるのは難しいと納得しつつ

それでも先月までの私の症状やストレスはとても厄介だったし

病気として扱っても間違いではなかったんだろうなとは思う。

 

今も嫌だなとか苦悩することが全くないわけじゃないんだけど

心に余裕があって、然程深く落ち込まずに跳ねのけられる感じ。

ボロボロに傷付いて泣いたり動悸がしたりパニックになることはなくなった。

イメージ的にはピッカピカにお掃除した後にちょっと汚れがついても

ササっとティッシュでふき取るくらいで問題ないというか。

今まではヘドロがこびりついてたような感じ。

 

でもいつまで続くのかな。

少しずつくすんで少しずつ汚れが蓄積し始めていることも感じてる。

理不尽でどうしても解せぬ案件がひとつあって

つっかえてなかなか流れていかないので近いうちに詳細を書くかもしれない。

 

改めて精神の土台を左右する「依存先」の存在の大きさを認識して

それと無関係だと思って泣いたり苦しんだりしていたことも

結局全部それ次第で心の余裕が変わっただけだった気がする。

 

でもカビの根のように奥底に重いネガティブさは根付いていて

安易に希望を唱えるのは今でもとても嫌い。

映画とかマンガとか「希望を信じれば夢が叶う」みたいな物語を見ると

それは作り話だから美談が描けるだけだと思って萎える。

救いのない絶望的な話が好きなのはその方が信頼出来るからだ。

ラクルなハッピーエンドはいらない。非現実的すぎて役に立たない。

酷な世界で苦しみもがいて自分と向き合ってる心理描写が見たい。

 

希望と絶望を客観的に描いた映画をよく思い出す。

『聖なる嘘つき その名はジェイコブ』

戦時中の乏しい街が舞台で

嘘の勝利情報に希望を見出して自殺をやめる人が増えるお話。

「こんな生活が続くならもう死んだ方がマシだ」と

絶望しがちな過酷な環境は何も変わらないのに

見える未来が変わると同じ過酷な環境をたくましく生きられるという。

でも嘘だと知ると命を絶つ人が再び現れ始める街の統計。

 

産まれたことや生きてることに輝かしい意味を見出したり

神様だとか運命だとか見えないものに縋るのは嫌い。

ただ偶然命を授かって、生きる試練を与えられて

死の恐怖と生きる苦痛に耐えられるかどうかが人生だと思っている。

気を紛らわす甘い誘惑のせいで生への執着を濃くすれば

死を受け入れる難易度が上がる仕組み。

 

気がついたら殺人サバイバルゲームに参加させられてる物語ってよくあるけど

ああいうのって人生の縮図だなぁと思うよ。

好きでそのゲームを始めたわけじゃないのに

戦わないと生き残れないの。

先に進めば何か希望があるかもしれないって信じながら扉を開く。

例え架空の希望でも信じていた方が幸せなのかな。