吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

記録癖

メンヘラ界隈では有名な南条あやという人物を思い出した。

 

私がネットを始めたのは1999年で亡くなった直後に彼女を知った。

検索したところで今ほどの情報が提供されていなかったネット社会では

少し話題になればネット民の誰もがアクセスするような小さな世界。

今は彼女をネットアイドルと形容したり心酔や神聖化する人もいるようだけど

私にとっては暇つぶしの読み物の1つでこういう世界もあるんだなぁという認識。

 

 IEネスケ2択のブラウザの時代。

回線は今のように繋ぎっぱなしなんて贅沢この上ない話で

月額何時間と決められたプランが多く

確か彼女の日記にも出てくる「テレホ」タイムに人が集中する、そんな時代。

だらだらと無駄なネットサーフィンはせず

見たいページや交流を取りたい相手に狙いを定めて貴重な接続時間を使用してた。

そんな中にあった1つのサイト。

 

人々がネットの有意義な使い方を見出せず

まぁとりあえず手始めにHPってものを自分で作ってみるかっていう

ネット民ほぼ全員が自分のHPを持って日記を書いていた時代。

現代のような個人情報をオンラインに載せるなんて恐怖!って価値観はない。

朝起きてから夜寝るまで、なんなら夢の記録も

自分の頭にある色んなことを発信していくのが当たり前の世界だった。

基本的にオフラインで交流のある人はオンラインに現れることはなく

日常のあれこれを書いても現実世界とは別だった。

自分の演出したいようになりたい自分になることも出来る。

 

今何がオンラインにあって何が足りないのかを考え

自分が何を世に発信していくべきかを確立していく序章だった。

でも現在は個人サイトを運営し続けている人はほぼいない。

 

南条あや保護室」も本人の個人サイトでhtmlの日記として公開されていて

死後暫くたって管理権限がライターの町田あかねさんと父に代わり

無念の挨拶文と共に本人が記したままの日記が読めた。

調べたら今はもう全部のログをオンラインで無料開放はされていなくて

卒業式まで死にません』という書籍でのみ全文が読める模様。

 

当時私はメンヘラではなかったけど周囲に病んだ人は多かった。

あの時代のビジュアル系と言えばそれが美学で

なんちゃってメンヘラ、ファッション感覚のリスカをする人も多かった。

全く病んでないのに血のりのついた包帯を巻くファッションも流行ったくらい。

薬の画像とリスカの画像は見飽きるくらい色んな人の日記に貼ってあった。

そういう人たちを冷めた眼で見ながらむしろちょっと嫌悪して

寄り添って理解しようという気持ちはまずなかった。

 

当時の私の日記には

「あたしが自殺とか絶対ありえないから、もし自殺で死んだとしたら

 それは実は他殺だと思うからよく調べてね(笑)」

とか書いてた。

人は変わるよね。自殺大いにあり得るよ。

絶対ないとか言えた過去の自分凄いなー。

 

…と、話がそれたけど、今日書きたいのは記録について。

多くの人が自分を記録した過去ログを消し去った現代で

SNSを使って発信されるものの多くは垂れ流し形態。

ブログすら廃れてアーティストの発信もSNSに移行する時代になった。

私はそれが嫌なんだ。

 

なんか「今」だけを大事にしてる感じ。

過去を知らなくても今が楽しく華やかならそれでいいし

今の衝動に任せて言ったってどうせ未来まで覚えてる人もいない、みたいな。

私は全部繋ぎ合わせてどれも切り離したくないという考えの人。

 

レコーディングダイエットでもしない限り

写真に収めがちな食事の内容とかは割とどうでもいいんだけど

どんな人とかかわりを持ってどんな出来事があって

どんなことを言われてどう感じたか

どんな景色を見たのか、それを見てどう感じたのか

私はそういう自分の目で見た景色や感じた心すべてが大事で

出来ることなら未来永劫この世に残しておきたいと思う。

 

大半の人は「黒歴史」という表現で封じたがる過去も

それが私だと胸を張りたいというか。

何度も自己嫌悪に陥る割に、私はきっと自分のことが大好きなんだろうなぁ。

他人に批判されればされる程それでも曲げられない自分の核を認識して

どうしてもそれを守りたい。

だったら戦うことを選ぶし、その為に孤独になるなら仕方ないと思う。

このブログのタイトルも無意識にそんな想いが反映されたんだろう。

 

間違っているかいないかは別として、認めたい。

それが正しい存在でなくても、一度沸き上がったものはちゃんと受け止めて

じゃあそれをどっちに向けてどういう形に変えていくのが良いのか考えるべき。

多分否定されそうだから隠しておこうとか、ないことにするっていうのが

きっと私は嫌いなんだと思う。

 

私が死んだ後の世界に生きる人に何かを残したいっていう感覚とも違うけど

以前京都に行ってゆっくりお寺とか仏像とか眺めながら

若かった頃には感じたことのない圧倒感を受けて涙が出たんだ。

「私はこの世にどれだけのものを残せるだろう」と思った。

私が生きていたことは事実で、その事実を消されたくない。

偉人でもない限り歴史に名前なんて残らないけれど

自分の欲求の方向として、私は存在感を持っていたいと考えている。

 

それは例えこの世に絶望して自ら命を絶っても

生きる意味を失って全てがどうでもいいと思うようになっても

誰かを憎んだり怯えることからの逃げが理由の死であっても

私は確かに生命を燃やしたと刻みたい。

そこにあるのは逃げ続けた記録ではなく、私が私を守って戦った記録であって

後悔しないために己を貫いた年月があると自信を持っているから。

 

そんな自分の価値観に目を向けると

私は実は自己肯定感は本来とても高いのかもしれないと思う。

他者に否定されて受け入れて貰えず自分すらその否定に染まりかけるけど

取り戻すことが出来たら私はここから出られるだろうか。

 

このブログは日々の私を知ってる人にバレたら即消すつもりで始めたけど

やっぱり自分を書き写していくうちにそんな簡単に消せないなぁと思ったり。

自分だけは自分の味方でいたいじゃん。

過去の苦しい気持ちを一番分かってあげられるのってその後の自分じゃん。

未来にちゃんと理解者がいると思えばほんの少し救われる気になるから

どこかにこうして残しておきたいと思うのかもしれない。

 

南条あやの日記には「名前なんかいらない」とある。

起きなくてはいけない時間に起きて

しなくてはならない仕事をして

名前を呼ばれるなら

誰にも名前は呼ばれたくない

何もかもを放棄したい

そして私は永遠に眠るために今

沢山の薬を飲んで

サヨウナラをするのです

誰も私の名前を呼ぶことがなくなることが

私の最後の望み

 

当時よりずっと彼女の言っていることが身近になった。

言っていることも、その感覚も少しは分かる。

他人事だと思って文字をなぞっていたあの頃と違うものが

今読み返したら見えるようになっているのかな。

興味はとてもあるけど、この物語の結末は自殺だ。

感化されて呑まれるだろうか。得られるものがあるだろうか。

 

気分の波が大きい私は、この記事を読んで全く共感できない日もあるだろう。

でも今は強くそう思ったから書いておくよ。