吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

平和ボケしていたいけど

あんなに毎日不安の波に呑まれていたのに、今とても穏やか。

このブログはしんどい時の感情を吐き出す用に使いたいから今は用がない筈だけど

開いたらホッとしたのはなんでだろう。

無理しなくていい。ネガティブなこと隠さなくていい。そんな安心感。

 

「楽しまなくちゃ」という義務感を無意識に自分に課して遠い地のライブに行った。

朝起きたら下痢と吐き気が酷くてトイレから離れられない。

前日食べたものには心当たりがなくてノロを疑ったレベルだったけど

もしかしたらストレスなのかなーと思いながら時間との闘いの中必死に支度をした。

 

ストレスっていうのは無意識に体に現れる信号で

自覚している悩みごととは違う次元にあるものだと思っている。

「このくらい大丈夫」「別に気にしてない」って自分では思ってても

それがただの言い聞かせであって実際は無理をしている時

私は体調を崩すことで「あ、無理してたんだな」って気付くことが多い。

身体表現性障害って言うらしい。

 

1年半ぶりの復職後、半年くらい毎日常に吐いていたけど自覚する悩みはなかった。

無気力無感情に近くてふわ~っとしていて何も楽しみがなかったので

時間をどう使ったらいいか分からなくて何もすることがなくて本気で困ってた。

どう考えても正常ではなかったんだけど、自分では異常さに気付けなかったから

なんでこんなに毎日毎日吐いてばかりなのか理解に苦しんでいた。

心療内科では漢方の胃薬を処方されるばかりで全く効果がなくて

吐く時の味をまずくしないようにポカリばかり飲んで吐くのが上手になった。

自律神経失調症ってどうにもならないものなんだなぁと思った。

 

私は何かと過敏で他人から見たら大袈裟に思われることが多い自覚がある。

白黒明確思考だからこそ、嫌なことがあると死に直結するし

不安が膨らむと生活すべてがダメになる。

そういう大袈裟っぷりが自分でも嫌で疎ましい性格だと思うから受け入れられなくて

ある程度のことは安易に辛いと認めちゃいけない気がしてるというか。

 

小学生の頃スパルタでバレーボールを習っていてスポ根を植え付けられたのもあり

やる気を出せば出来る、逃げるのは悪いこと、不穏な空気にもぶつかっていけ

何が何でも勝て、みたいな精神が今も抜けてない。

だから「鬱は病気」と分かっていても

どこかでまだ「病気は思考や性格のせい」と思ってしまう節もある。

 

で。まぁもう本当にトイレから離れるの無理レベルに体調悪かったんだけど

現地についてみたら吹っ切れたのか、そこから体調が悪くなることは全くなくて

ノロでなかったことだけは確かだなぁと。

 

ライブがね、想像以上に楽しくてね。

鬱屈した目で見てた景色が壊れて、ちゃんと光の中に自分も招かれたように思えて

私ここにいて良いんだって確信出来る要素がたくさんあって安心して。

大好きな曲と、大好きでいたかった人と、色んなバランスが全部うまく繋がって

やっと本来の姿に戻れたような幸せを感じたんだ。

 

大袈裟にその喜びを噛み締めて嬉しさこみあげていっぱい泣いて

「こんなに幸せになれるなら頑張って生きる」って勝手に誓った帰り道。

あんなに絶望視したのに世界が変わったよ。

 

綺麗ごとを言ったところで自分の命を好きなものひとつに委ねすぎているリスク。

依存体質でいる限り、依存先が不安定になったら絶対に私は壊れる。

幸せでい続ける自信はない。

頑張るけど。

楽しめるように、嫌われないように、続けられるように。

でも、失っても大丈夫なように保険をかけてリスクを軽減するのが正しいのだろうか。

 

躁鬱の波を把握する為に4月に入ってから記録をつけ始めたけど

このハッピーモードが来てから鬱がくる気配がなくて記録をやめた。

幸せボケした今の状態で明日久しぶりの診察とカウンセリングに行くけど

何を話したらいいんだろうな。

 

今が幸せで満たされてると、過去の辛かったことを安易に忘れて

なんだか毎日がとても素晴らしく幸せな人生のように思えてくる不思議。

不安と悲しみを感じている時は過去も未来も真っ暗に引きずられるし

どうして私は色んなことを切り離して考えられないのだろう。

忘れられるなら忘れてしまった方がいいことなんだろうか。

でも、また闇に戻った時さらに悪化しそう。

 

放り投げずにもう少し自分と向き合うことを続けてみようと思う。

お薬はしばらく必要ないかもしれないけど

マリオのスターだって期間限定の無敵モードなんだから

それを実力と勘違いしちゃいけない気がする。