吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

神様を失った宗教

私は依存体質である。自覚はある。

 

現代では「依存」は良い意味で使われることはまずない。

恋愛に不慣れな人が相手の迷惑を顧みずのめりこむ「痛さ」みたいなイメージ。

架空の神々しさを盲信して崇めちゃったりとか。

 

でもそれって「一途」とは違うの?

ミーハーは悪いもので、一途は良いものって認識で大人になったよ。

ひとつのことに真剣に打ち込む集中力を教育された子供時代だったよ。

諦めない執着心を根性と呼び、本気の証だと信じてきた。

ひたむきで健気な熱意を美学ではなく気持ち悪いとする現代の価値観が

実は私にはよく分からない。

 

ただ抱き締めたいだけなのに切り刻んでしまうシザーハンズのようだ。

 

私の初恋は6年間の片思いだった。

告白してフラれても好きなままだったけど

そんな私でもいいと好いてくれた別の人とお付き合いしてしまった。

でもやっぱり忘れられなくて別れて片思いを選んだ。

 

「この人って決めたら心を捧げてしまう私」が出来たのは多分そこからだ。

 

辞書をひくと、一途も依存も想いのひたむきさは同じ。

違うのは、それがないと自分のバランスが崩れてしまうのが依存だそう。

一昔前に流行った「好きすぎてつらい」にもあるつらさが伴ったら依存になるのか。

好きだったら無償の愛で微笑んでるだけで完結するわけないだろ

 って私は思うけど、皆は違うの?

依存するのは珍しいパターンで皆は一途以内で何とかなるの?

どうにもならなくても表に出さなければセーフなの?皆仮面をつけてるの?

 

私の最近の問題はその先にある。

 

依存によって自分が壊れるのを恐れる方が勝り始めたのだ。

私を壊すならあなたのことは好きじゃないという暗示をかけるようになる。

本当はそんなに好きじゃなかったんじゃないか?

いや、きっとこじれ具合はもっと過度。

 

大好きで大好きでその人のことを考えてる時間が幸せで

一緒に作った思い出の余韻だけで毎日がキラキラしてた時期があった。

その人のためなら何でもしたいくらいの熱中。

そうなると好きな人は私にとって神様みたいな位置づけになる。

 

心の中でおはようとかおやすみとか言っちゃう。

トイレで悶絶しながら助けを呼んじゃうのは我ながらどうかと思うけど

なんかもうアンパンマンとかドラえもんみたいな存在というか。

起きるのやだよーとか支度めんどいよーって時とか

なんかあると助けを呼びたくなるやつ。

心の中に常にいて、いつも私を励ましてくれて、困った時は助けてくれる。

実際レスポンスはあるわけないんだけど、心の拠り所にしちゃう。

 

昔付き合ってた人にそのこと言ったら驚かれたけど

乙女っぽくて可愛いって頭を撫でてくれたからヤバイ行為という自覚が薄い。

トイレで助けを求めてることは言わなかったけど。

友達は「トイレでレスポンスあったら逆にヤバイ」って笑ってた。

 

でもまぁ人間関係ってそうそう円満なまま永遠に続くもんじゃないから

どっかしらで熱量の差が浮き彫りになったり嫌悪感が膨らんだり。

私からの信者スタイルは変わらず、相手が私を拒絶する方向になりやすい。

でも嫌われるの怖いじゃん。

好きな人からの嫌悪は他者の1万倍くらいの威力がある。

私の生活の中にあるすべての輝きが突然闇になったら私は迷子だ。

言ってしまえばすぐ死にたくなるくらい安直な思考回路しかない。

 

ダメになりかけた時の絶望視こそが私の悪いところだと思って

トドメを刺されないように笑顔だけを見せて距離を置くことにした。

どんなに心の中が暗雲でも、受け止めてくれない相手に見せたらダメだ。

 

でも、おはようおやすみ助けてが習慣づいてしまって

その言葉だけが自然と毎日心に浮かぶ。

でも神様がいない。

あの人を思い浮かべても、あの人は私に希望を与えてくれない。

あの人はもう神様にしちゃダメだ。

嫌われたくない。嫌われてると感じたくない。これ以上拒絶されたくない。

その想いが渦巻いている限り、もう名前は呼べない。

 

信者体質が抜けない私は、新しい神様を求めるべきだろうか。

神様が欲しい。

ちがう、神様であって欲しかった。でももう。

 

まるで何も気付いていないふりをして微笑んで見せる。苦しい。

気付かれていないわけがないことも把握しながら。