吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

いつ死んだっていい

かの有名な『完全自殺マニュアル』の購入を何度か検討した。

 

寝起き一番の死にたさMAXなベッドの中でメルカリをチェックし

とりあえずお気に入りに入れて他の通販サイトと検討しようと思った。

私が見た時は他の人のお気に入りはなかったけど

数時間後「あなたがいいねした商品にコメントがつきました」の通知が。

 

見たらお気に入りは5件に増え

「購入していいでしょうか」の確認コメントがついていた。

出品者から承諾の返信がくるも購入希望者が数時間放置していると

「即購入しますので購入していいでしょうか」と横入りの人が現れた。

 

なんて人気商品なんだ。

ものがものだけに、死に急ぐ人間模様を想像してしまう。

 

それだけの食いつきがあることにちょっと驚いた。

話題作だし興味本位で読みたがる人もいるにしても 

発売からそれなりに経った今、破格なわけでもない出品なのに。

1年間を振り返って自殺者が増えるという年の瀬のリアリティか。

 

売り手も買い手の未来を想像して怖くなったりしないのかな。

なんで手放す気になったのかな。

とか、お気に入りを解除しながら考えた。

 

私の自殺願望は今は小さく落ち着いている。

 

前夜は高いビルから飛び降りることばかり想像していた。

読んでたマンガと聴いてた音楽に飛び降り自殺の要素があったから

脆い認識の中で「それもいいかも」と吸い寄せられたんだろう。安直。

心が弱ってる時にそんなものに触れたら過剰に感情移入しそうだったけど

孤独の苦しみに共感したくて敢えて求めてしまいがち。

 

過激描写の作品は真似する人が出るからって禁止にしても無駄だよね。

元々くすぶらせてるからきっかけなんて何でもいいんだもん。

臭いものに蓋をしたところで、臭いものが閉じ込められた場所を掘り当てるまでだ。

ふらふらと無心で。そこに救いすらある気がして。

 

思考力は無に近く、遠い意識だけが死に向かおうとしている感じ。

悲しさや苦しさが募っているわけではなく

それら負の感情を感覚として携えているような心の重さだけがあって

「死を選べば解放される」と感じていた。

 

読んでいたマンガはネットでたまたま広告を見つけた『イジメの時間』。

いじめられてる主人公が限界を感じて校舎の屋上に向かうシーンで

「何も考えるな。考えれば辛くなる。この状態を守るんだ。

 苦しくない…悲しくない…辛くない…寂しくない…痛くない…」

と心の中で唱えながら雑念を追い払って死の場所へ足を運ぶ描写があった。

そう、まさにそれ。

 

いつか自殺する時が本当に訪れたとして

死を実行する際の感情は絶望のどん底で悲鳴をあげている時ではない気がした。

悲観する感情の高ぶりの裏には希望がある。

ああして欲しい、こうしたい、こうなりたい。

嘆く元気がある時はきっとその望みはまだ形を保っていそう。

 

でもこの時はもう願いを胸に抱く気力もなかった。

悩みを発生させた1つの件に関しての想いがどうこうではなく

何をやっても失敗して苦しむ不出来な自分の存在を消したい一心。

「生きていたらきっとまた繰り返す」

だったらそんな人生はもう歩きたくない。何もしたくない。

 

生への執着を失ったのは大学生の時だったと思う。

自殺を試みたけど踏み切れず、死が迎えに来るのを待ちわびるようになった。

「早くおばあちゃんになりたい」が口癖の二十歳だった。

 

震災や北朝鮮ミサイルに激情する人を人種が違うなと思って横目で眺めていた。

なんでそんなに生きたいの?

自分の手を汚さずに死ねるなら喜んで受け入れるよ。

ましてや自分を傷つけた者たちも諸共滅びるなら万歳じゃないか。

死んだ私を好き勝手語ることもなく

私が消えることで優位を勝ち取る人もいないならすべてが望みのままだ。

 

いつ死んだっていい。

 

そう思いながら生きている。

だからこそ、生きている間は生きようと意識しながら時間を過ごすんだ。

後悔するような選択をしないように。

生きたくはない。でも、もう少し生きようと思っている。