吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

ずっとずっと初心者マーク

人間関係がうまくいかなくなった時に

「前は喜んでくれたのに同じことをしても今は嫌がられる」という理不尽さがある。

 

挨拶をした。会いに行った。贈り物をした。好きだと言った。

それらを過剰に喜んでくれた人に対しての印象が当時のままなんだろう。

時の流れと共に相手の感じ方が変わっていることを頭でしか理解出来ない。

 

最初は恐る恐る相手の領域へ立ち入る。

未知の世界が怖くて怯える私は割と大きな勇気を要して行動を起こす。

嫌われた過去のトラウマが植えついているから

「こんな私がここにいることを許してくれるのですか?」という気持ち。

ダメ元だから軽くあしらわれても当然だと思って

この段階で冷たくされる分には傷ついたりはしない。

思いがけずに大歓迎してくれる人に心を開き、相手の包容力を信じていく。

 

受け入れて貰えた喜びを感じると、私は水を得た魚と化す。

歓迎されたことが嬉しかったんだ。とてもとても嬉しかったんだ。

自己否定感が強く、他者からも否定されてきた私には

否定か肯定かの二択しかなかった。

 

私が派手にはしゃぐから、相手も派手に喜んでくれる。

私は好きな人に対しては持てる限りの表現で褒めるところがある。

心酔した私から出る絶賛の想いは本音だからきっと説得力もある。

褒められ慣れてない人には特に響くようで

普段しないような特別なレスポンスを返して貰うことは正直多い。

しっぽ振ってる犬みたいな感じなのか。そんな可愛らしくはないけど。

 

過剰に自分の存在を喜んでくれる人が現れたら

のめりこむに決まってるじゃないか。

ましてや明確な言葉にされたなら、そのフレーズは頭に流れ続ける。

もっと喜んで欲しい。もっと好きになって欲しい。

 

でも相手にとってこの熱烈な好意が日常に存在しなかった場合

初期衝動の感動で終わりやすいのかな。分からないけど。

そのうち私の熱意は当たり前の光景になって新鮮味はなくなり

いつしか「他の人はしない迷惑行為」にカテゴライズが変わる。

大スターみたいに追いかけても手の届かない人だったら良かったのかな。

 

鮮度はなくなっていい。

私だって相手に慣れる。

姿を視界に入れることも、声を聴くことも、刺激的なものではなくなる。

でも、迷惑になっちゃうのはなんでだろう。

いつから嫌悪感を伴い始めたんだろう。

その時気付けたら私は配慮が出来たのかな。

気持ちを抑えて。 それは苦痛を伴う忍耐なんだろうか。

なんでもっと自然に距離を取れないんだろう。

 

知人から好きじゃないお菓子を貰った時

自分のためにしてくれたことが嬉しくてお礼を伝えた。

でも相手にはそのお菓子のセレクトがナンセンスであったことは告げない。

まっさらな好意を壊したくないから余計なことは言わない。

そのことを考えもしない相手はまた好みじゃないものをくれる。

 

最初は自分のためにプレゼントを用意してくれたことが嬉しくても

自分で食べられないものを貰ってお返ししなきゃいけないのは面倒になる。

持ち帰る荷物が重くなる。損している気にすらなる。

そう。私だってその感覚を知ってるんだ。

きっと仕方のないことなんだろう。

 

優しい嘘を含む歓迎だってことを学ばなきゃ。 

 初めてだから嬉しいことは、続けたら嬉しくなくなる。

もっと相手を見て、愛を押し付けずにいたら嫌われなかったかな。

相手を責めたり開き直る発想はあまりに脆くて、最後は自己嫌悪が膨らむけど。 

 

せめて迷惑だってことを伝える方法がもう少し優しかったら

今こんなに苦しくなかったね。

それともこれはマシな方なのかな。

追い詰めた私が悪いんだ。

どう償ったらいい?どう反省したらいい?

嫌われてきた過去の土台が強靭だから、すごくすごく怖いよ。