吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

帰りたい家が見つかった

親と一緒に過ごす家がとにかく窮屈だった。

darksunday.hatenablog.com

 

お説教による玄関締め出しは何度か食らったけど

幼少期は「おうちに入れない」というのはとても怖いことだった。

でも年齢を重ねるとその恐怖感は薄れていく。

 

「親の言うことが聞けないならうちの子じゃない!出ていきなさい」

 

耳にタコが出来るほどよく聞いたセリフ。

その度に私は平謝りをして家に置いて貰う選択を繰り返してきた。

味を占めた親はますます権力で支配しようとするけど

そこには過ちに対する反省も親への尊敬もなかった。

脅しに屈する弱者だった。

 

でも反抗期を迎えて、肉体的には親と互角に戦える自信がついた時

親に頼らない生活を少しずつ想像するようになった。 

働いて家族を養ってくれなきゃ困るという漠然とした発想だけがあって

当時の私にとって親は生活費の価値しかなかった。

 

その日もいつものように母と口論になり、意を決して家を出た。

中学2年生くらいだったと思う。

勉強机に相田みつをの本を広げて置いて行った。

何が書いてあったページか覚えてないけど、相田みつをと言えばの世界観。

そのままの私を認めて欲しいっていう系統だったと思う。

 

田舎の中学生は外で遊ぶことに慣れていない。

ましてや雨の降る夜の行き場所なんて思いつかなくて

徒歩15分くらいの大型スーパーに行った。

速攻で連れ戻された。

 

その家出もただの「乱」だった。

何も変わらなかった。

母はよその人に笑い話としてそれを話していた。

本を開いていったことを馬鹿にして嘲笑われた。

私の真剣な主張はその程度しか響かなかった。

 

やりたいことは何もなかったけど、大学は絶対に東京へ出ると決めていた。

地元に残る未練はひとかけらもなかった。

意外にも親は反対することなく送り出してくれた。

 

初めて住んだ6.5帖のワンルームは狭くて息苦しかった。

閉じ込められてるような小屋にいるよりは

皆が帰った大学のロビーに1人で残ってのんびり過ごすのが好きだった。

消灯の巡回警備員に追い出されるまでよくそこにいた。

誰にも邪魔されずに1人の時間を過ごせる広くて綺麗な場所。

 

待望の自由に喜んだものの、まだ一人暮らしを謳歌する生活力がなくて

新生活にバタバタしている間に3年が過ぎた。

確か2年目くらいで父の東京への単身赴任が決まり、父も上京してきた。

私の一人暮らし、父の一人暮らし、実家に母と妹、の3つの家に分散した。

 

3年遅れで上京してきた妹と同居することになり、2DKに広がった。

1年経つと妹は一人暮らしを希望し、同居が解除されることに。

ワンルームに戻りたくなかった私は父と一緒に住むことを選んだ。

 

父とはコミュニケーションが成り立たない。

なんか感覚が普通じゃなくて、話が嚙み合わない。

同居生活はほぼルームシェアのような状態で

おはよう、行ってきます、おかえり、以外の会話は殆どしなかった。

食事を一緒にとることもほぼなくて

父が帰宅したら私は自室に閉じこもる生活をした。

でも毎週末必ず父は実家に帰っていたから週の約半分は解放的になれた。

 

10年ちょっとそんな生活を続けたけど

コミュニケーションの不成立具合が加速して私は限界を迎え、家を出た。

家賃を半分負担していた手前勝手に引っ越せなかったから

精神を病む程にその同居がしんどくなっていることを母に相談して許可を貰い

念願の、本当に念願の「広い家での一人暮らし」が始まった。

 

天国。

 

高給取りではないけど、自立出来る程度には稼ぎがある。

都心の職場からは少し遠くなるけど、予算内で広い家が見つかった。

家具を買い替えて、少し内装をDIYしたりして、理想の家作り。

 

好きな色で統一された家の中。

どこを見渡しても好みの家具。

趣味のものをいっぱい収納した棚。

なんせ静かで人の気配がない家は「私だけの空間」という感動を与えてくれる。

幸せすぎて、家が愛しくて、家で過ごす時間をもっと増やしたくなる。

 

家の中を自由に歩ける。

好きな時間に好きなことが出来る。

自分が汚さない限り絶対汚れない。誰も私に文句を言わない。

誰かが突然ドアをあけるかもしれないというビクビクはない。

ただそれだけのことが嬉しくて嬉しくて

引っ越して半年が過ぎたけど、未だに時々泣く。

心身虐待を受けてきた人の比にはならないだろうけど

私は私で虐げられてきたんだ。

 

おめでとう私。おめでとう。良かったね。 

そう思うのに、親を憎んだままでいいのかって自問するもう1人の私がいる。