吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

好きでこの家に生まれてきたわけじゃない

反抗期の話。

 

適齢期に恋愛結婚した両親の待望の第一子として産まれた。

2人共良い大学の出身で一流企業へ就職して出会った職場結婚だったそうだ。

私の誕生を機に、父はより一層仕事に励み表彰を受ける程の功績を出した。

母は専業主婦となり、たっぷりと愛情をかけて子育てをした。

料理も服も母は器用に何でも作ってくれた。

3つ下の妹も生まれ、家族4人で色んなところへ遊びに出かけた。

海外にも何度か行った。金銭的にも豊かだった。

スポーツや楽器の習い事、塾にも通わせて貰ったおかげで

平均より秀でる能力はそこそこ備わった。

 

そんな順風満帆そうな家庭で育っても、歪んだ人間になってしまうのだ。

 

子供に人権はなかった。

私は子育てゲームに採用された駒だったと思っている。

 

望まぬお受験戦争だとか、親の職を継がせるためにレールの上を歩くとか

そういう絵に描いたような強制ではない。

ただ、私が良いと思っても親が良いと思わなければ絶対に認めて貰えない。

服の趣味も、遊び方も、付き合う友達も、音楽の趣味も。

 

高校生の頃、友達3人でディズニーのカウントダウンに行くことになった。

頼み込んで親の承諾も得ていたけど、直前にテストの成績が悪かったとかで

罰として行くことを許されず、友達2人で行って貰うことになった。

もうチケットは手元にあったし、これから勉強頑張るから行かせてと泣いたけど

目の前でチケットを破られ、これでもう諦めろと叩きつけられた。

 

勉強の手を抜いた私が悪くて自業自得なんだけど

踊る心を握り潰すように粉々にされたショックは未だに忘れられない。

「理解のない親」のイメージは濃厚になるばかりで、これ1回が特別でもなかった。

 

友達と一緒の店でバイトをしようと盛り上がった時も 

酒を取り扱う店は絶対ダメだと親に断固反対されて許されなかった。

監視下に置くためか家から遠いところも却下された。

親の許可が出た店でバイトしたお金で買った服は

親の趣味に合わないと批判をくらい、気付いたら捨てられていた。

大好きな音楽も「気持ち悪い」「こんなの好きなんて頭おかしい」って言われ続けた。

 

好きなアーティストの死に嘆き悲しんでいた時は

「そんなくだらないこと」はいいから勉強しなさいって言われた。

こんなに悲しいのに?

泣いても泣いても涙が止まらないのに?

 

いつだって親は絶対的権力をふりかざして

全身全霊で「私は嫌だ!」「私はこうしたい!」と主張しても

未成年の分際で我儘を言うのは許さないという一点張りで却下される。

親に面倒見て貰ってるうちは親の言うことをきけと。

 

どうにもならない自分の年齢を恨み続け

青春時代は悔しくて泣きじゃくる日々だった。

それが過呼吸を伴っていたと知ったのは大人になってからだった。

私にとって泣くという行為はあの呼吸が当たり前だった。 

心配されたことはない。泣き真似をしてからかわれた記憶はある。

 

中学生になってやっと与えられた自分の部屋にベッドはなかったけど

喧嘩して泣きたくなった時の待望の逃げ場所になった。

言い争いになっても目の前で泣くしかなくて怒鳴り続けられるの嫌だったもの。

鍵のないドアに目一杯背中を押し付けて

絶対にここに入ってくるなと全力で拒みながら泣いていたよ。

 

殺意はあった。間違いなくあった。

泣かされる度に何度も想像した。

だけど、結局生きていくにはその選択をするわけにいかなくて

自立出来ない未成年の弱さを痛感しては悲しくなるだけだった。

 

それでも抑えられない怒りは、反抗期という名前で現れる。

狭いマンションの中で、母親めがけてダイニングの椅子を投げた。

最早得意技の1つのように、喧嘩の度にその技を繰り返した。

突き飛ばして蹴り続けたりもした。

横たわったまま動けなくなった母親を見て「殺しちゃったかな?」って焦って

体を揺さぶって生存確認したこともあった。

「そんなつもりはなかったのにいなくなったら嫌!」って思ったかは分からない。

ただ殺人犯にはなりたくなくて不安になっただけかもしれない。

 

知ってる限りの汚い言葉を並べて

これ以上ないくらいの罵りをしたかった。

今そのセリフ聞いたら笑うと思う。

でも当時は全細胞で親に反撃せずにいられなかった。

 

父親はもっと気が短かったし冷酷だった。

優しいふりをして、温もりのない人っていうイメージ。

反抗期の最中、首を絞められたことがあった。

脅しだったとは思えないくらい単純に父もキレていた。

 

あれはキッチンでの出来事で、私は包丁を手に取った。

父に向けて脅すと挑発された。

ビビった私が結局包丁を手放したけど

せめてもの抵抗として、翌日父のYシャツをはさみで切り刻んだ。

自分に出来ることのショボさよ。

でも、思い留まれて良かったね。

 

あの家のどこに救いや愛があったんだろう。

 

今は円満に仲良し家族みたいになっているけど

私はこの頃の感情を忘れられないし、憎む機会はその後も幾度となくあった。

 

誰にも束縛されたくないし、私の趣向を批判されたくない。

私のやりたいことを、私の世界を邪魔しないで欲しい。

放っておいて。かまわないで。こっちにこないで。

だから、ひとりがいい。

 

いつしかそれが私の人生の真理になってしまった。