吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

自分を放棄したい

心療内科の先生に言われた言葉が半月程ずっと頭の中をぐるぐるしている。

 

「解放されたいんだろうね」

 

現在は週1の通院。

今週はこんな感じだった、今はこんなことを考えてるって報告をすると

先生は医師としてというより1人の相談相手として聞いてくれる。

同情や共感はしてくれないし味方のような安心感はないんだけど

これまでの先生たちよりはずっと目線を合わせようとしてくれる。

興味を持って話を広げて質問を繰り広げてくれるだけでも嬉しい。

だからもうちょっと私もこの先生に向き合っていようかなって思える。

 

過去にこのブログに書いたような内容は大体話した。

病名を明確に告げられないことへの不満をぶつけた時

「こうやって病院に通って薬を飲んでるじゃない、それだけじゃダメなの?」

って言われて少し落ち着けたりもした。

症状があるのは確かで、必要だから通院しているっていう事実を

医師側が認識してることを知れた。

 

その通院の事実自体は勿論自分で分かっているけど

医師に言って貰わないと独りよがりみたいで受け入れられなかった私。

自分の評価を他者に委ねながら生きてきた結果なんだろうなぁ。

何かに同化して自分の色を消すことが人一倍嫌いなのに

誰かに褒めて貰わないと自分の色を認めることが出来ない。

自分ひとりで存在が出来ない。

 

褒めて貰えるから親の言うことをきく。

怒られるから悪いことをしない。

その理論のみで育てられると、善悪の基準は人の意見ありきになってしまう。

でもそれが理不尽だと感じるようになって

反抗期以来、言いなりになりたくない欲求が膨らんでいった。

がんじがらめに抑えつけられたストレスは何年経っても癒えない。

なのに、褒められる怒られるで善悪を悟る価値観が抜けない。

 

 

 

冒頭の言葉は「ぐちゃぐちゃになりたい」ってことを話した時の返しだった。

ああそうか、私は今の私が受け入れられないから自分であることを放棄したいのか。

先生の言った「解放」は自殺という言葉にしか置き換えることが出来ない。

 

死にたい、死にたい、と思ってはいたけど

私が捨てたいのは「嫌な世界」や「嫌な人」よりも「嫌な自分」だったのかな。

前者も強く感じるしそれらからの解放という意味も間違ってはないんだけど

自分のことが好きで自分の生き方を肯定出来ていたら

ぐちゃぐちゃになりたいとは思わないんだろうな。

 

自分を批判する言葉を聞きすぎた。

言葉にならない空気だけで強い殺傷力になる程敏感になってしまった。

見下しているゴミみたいな人ひとりに嫌われても然程気にならなくても

そのゴミだらけの掃きだめにいる感覚になったらパニックだ。

好きな人に見捨てられた実感はそのパニックの何倍もの殺傷力を持つ。

私は無価値。

私は自分で自分を肯定出来ない。

 

この先まだ生きていくならば、バランスが取れるようになりたいな。

さもなければ自殺願望に拍車をかけて実現したい。

白黒思考ダメって認識したのにね(笑)。

 

なんか私はずっと自分のことを勘違いしていたみたいだ。

迫害される覚悟、罰を受ける覚悟を持って挑む勇気は割と持っていて

自分ではそれを「意思を貫く強さ」だと思っていた。

だけどそれは批判されて当然という諦めだったり、苦痛慣れが先行していて

自分を大切にしないから出来る投げやりの勢いだったのかもしれない。

もしくは抑えつけられることに反発する一心で我儘を通したいだけか。

 

母の教育を自分で正さないと私はずっと母に囚われたままな気がする。

教育して叱ってくれる人は大人になるともうそうそう出会えない。

正しい道はどこにあるのか。

私はこの解放欲求を自己改善で満たすのか、潰すことで達成するのか。

誰か教えて欲しいよ。