吾輩は吾輩である

どこかに理解者いるのかな

火の鳥

小学生ぶりに手塚治虫の『火の鳥』を読み返している。
たくさんある話の中で
黎明編、未来編、ヤマト編、宇宙編、鳳凰編を読み終えたところ。

永遠の命に憧れる者が火の鳥を捕まえようとして早死にしたり
古墳に生き埋めにされる罪なき人を守る手段として生き血が活用されるのは
説明的なお話なんだけど。
機械化しすぎた人類が滅びて黎明期からやり直す流れの中で
肉体を失っても尚生き続ける魂がそれを見守ったり
輪廻が描かれるのが不思議体験みたいで面白い。

人生は長さより濃度だっていうのは最早定説だし
希死念慮を抱く側の人間としては火の鳥に憧れることはまずないけど
無理矢理血を飲まされて死ねない体にされるエピソードもあるのよね。
今回はそんな死ねない絶望に注目しながら読んだ。

鳳凰編で、東大寺の大仏建設を任されていた茜丸
火災を食い止めようとして焼死した時の火の鳥との会話が特に印象深い。
志し半ばで死んでしまってまだやりたいことがあったのに
次はミジンコ、その次は池の亀に生まれ変わることを告げられ
もう二度と人間には生まれ変わることはないと定められていたシーン。

輪廻した時に完全に記憶が消えているなら
苦しみも虚しさもないのかもしれないけど
終止符と共にミジンコへの延命みたいな措置ってすごく嫌だなと思った。
そして亀は長生きでなかなか死なない。
やりたいことが出来ない姿で生きたくなくても、生きさせられる。

茜丸は作中で愚か者として描かれた人物だった。
元は悪い人じゃなかったのに、権力にあぐらをかいて仕返しまでした。
他の話によると火の鳥には先祖代々まで呪う力もあるらしいので
茜丸の生き方を良しとしない故の報いなんだろうなという展開。

火の鳥は言わば神様のような存在で
生前良い行いをした者は天国、悪ければ地獄
という価値観を肉付けしたようなお話なのかもしれない。

現実には火の鳥はいないし、死んだ後のことは分からないけど
死んでも尚、何かしらの形で生き続けなきゃいけないとしたら
死ぬ意味ってなんなんだろうとちょっと思ってしまった。

『死役所』で自死した人に無神経な質問があったシーンを思い出す。
「死ねて嬉しいですか?」
「死にたくて死んだなら、死ねてもっと喜んでいるものかと」

死ぬってなんだろう。
意味なんて本当は何もないのかな。